百々橋 (どどばし)(小川通り)
戦国時代には応仁・文明の乱では、百々橋から一条戻り橋までの一帯が西軍の山名方と東軍の細川方の主戦場だったみたいです。原因は 将軍家の後継者争いに管領家の後継者争いが絡み、その配下にある全国の武士をも巻き込んで十一年に渡って行われた戦いは、京都を焼き尽くしました。 で、ここは二度目ですが応仁の乱(ただ乱しただけ)の戦場と知り早速ウォーキングがてら行ってきました。
ちなみに『西陣』の由来のきっかけは山名宗全率いる西軍が陣をおいたことからきたらしいです。
小川(こかわ)と
百々橋の礎石
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山名宗全邸宅跡
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