ウォーキング御所

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ウォーキングコース

堀川通り南下 ~ 紫式部・小野篁のお墓 ~ 赤穂義士四十六士遺髪塔跡 ~ 小川通り ~ 尾形光琳・尾形一族乾山菩提所 ~ 御所

 

 北山通りから堀川通りを南へ北大路通りを越えると島津製作所がありその出入口の門の手前に紫式部のお墓があります。なぜか小野篁(おののたかむら)のお墓が右側の並んでいます。 紫式部は『源氏物語』の作者で有名、小野篁は 『六道珍皇寺の井戸から冥土へ通っていた』とされる役人で有名だったみたいですね。

 

紫式部と小野篁のお墓(北区)

 

 

 

赤穂義士(瑞光院跡 上京区)

 

そのまま堀川通りを南へ進み、鞍馬口通りを少し下がった所(上京区)にあります。

 

赤穂義士四十六士遺髪塔の由来

 元禄十五年(一七〇二年)十二月、赤穂浪士吉良邸に討入本懐を遂げし後、翌年二月四日に義士四十六人が切腹する二日前、瑞光院々主の使僧、宗海禅師は細川、松平、毛利、水野の四家の大名に預けられた四十六人から髷の髪をもらい受けた。帰京後、大石内蔵助良雄の遺志のより主君、浅野内匠頭長矩侯の墳墓の傍に四十六士の遺髪を瓶の器に納めて埋め、その上に遺髪塔として石塔一基を建立した。石塔には四十六人の姓名と戒名が刻まれている。義士のうち寺坂吉右衛門は切腹していないため刻名されていない。
と記されています。

 

 

小川通り (おがわどおり)(上京区)

(鞍馬口通り(北区)~錦小路通り(中京区)までの通り)

 

 

 先ほどより南下し上御霊前通りの信号を渡り(堀川通り)ひとつ目が小川通りです。今回は、北から南に進むコースになりましたが本来は南からをおすすめします。
南北の小川通り周辺には、本法寺などの寺院、裏千家家元の屋敷、表千家不審案、茶道具店などが数多く建ち並んでいます。本法寺の門前にはなぜか狸が一匹発見人が近くによっても怖がらずおとなしく何をしていたのでしょう。色々神社仏閣をまわっていますが狸は初めてで貴重な御対面でした。
 通り名の由来は、かつて北の上立売通から一条通付近まで河川「小川(こかわ)」が流れていたことによるみたいです。

 

 

尾形光琳(上京区)

 

 

寺之内通りを東へ進むと、ふと目に入ってきた尾形光琳・尾形家一族 乾山菩提所。

 

光琳菩提所 興善院旧跡
 尾形(小形)光琳は江戸時代元禄の頃の代表的画家で、京都の呉服商「雁金屋」の生れ、一七一六年(享保元年)六月二日五十九才で寂す、尾形家の菩提寺興善院に葬られた、光琳は嫡子を一七〇八年(宝永五)小西家へ養嗣子にやった為に血脈は小西家へ続き尾形一族より代々の住職を出していた興善院は無住となり、墓のみを残して取払い、本行院の管下に入る、同院一七八八年(天明八)の大火に焼失し、加えて小西家も困窮し一八〇五年(文化二)五月三日光琳の墓石は総墓所へ移された、光琳歿後百年、酒井抱一が光琳の墓石を見出せず、本行院跡に碑を建立す、一八二〇年(文政三)、本行院は泉妙院と合併して興善院跡に再建され本行院跡の碑を泉妙院が管理してきた。
小西家は縁談として尾形家を守り1908年(明治四一)六月、三越呉服本店(現株式会社三越)は小西得太郎と共に施主となり一九四七年(昭和二二)の頃小西家が絶えた後も毎年六月二日光琳忌法要を営んでいる、一九五九年(昭和三四)文化財専門審議会、琳派研究家は総墓所へ移された光琳の墓石を元の所へ戻すことを提案され、一九六二年(昭和三七)正門が妙顕寺に依って南側に移転されたのを機とし埋葬地泉妙院に戻し現在に至る小西家よりの寄贈品、光琳及び一族の作品、文献等を保存し位牌を祀る。
       昭和五十一年六月吉辰
                                            泉妙院

 

と記されていました。

御所

 寺之内通りをしばらく進むと新町通りにあたりこの通りを南へ進んでいくと今出川通り。御所へは、東へ進み烏丸通りを越えたところになるのでもう少しで到着。今回は、そこから真っすぐ行き『今出川御門』より御所へ入りました。

京都御苑には、まず丸太町通りから「堺町御門」、 時計回りに 「下立売御門」、「蛤御門」、「中立売御門」、「乾御門」、「今出川御門」、「石薬師御門」、「清和院御門」、「寺町御門」と 周囲に9箇所の立派な御門が建てられています。

 

今出川御門(今出川通り)

 

 

猿ケ辻

 

御所の北東、猿が辻の鬼門へ。

猿が辻(さるがつじ)
  御所の築地塀が折曲がった部分の屋根裏に、一匹の木彫りの猿が見られます。烏帽子をかぶり御幣をかついだこの猿は、御所の鬼門を守る日吉山王神社の使者ですが、夜になると付近をうろつきいたずらをしたため、金網を張って閉じ込められたといわれています。開国派とその反対派がせめぎあう幕末のさなかの一八六三(文久三)年五月、公家で攘夷派の急先鋒の一人であった姉小路公知がこの付近で殺されたと伝えられています(猿が辻の変)。
と記されています。

 

 

清和院御門(寺町通り)

 

清和院御門は、迎賓館に一番近い御門(東側)。

 

 

梨木神社

 

明治維新に大きく貢献した三條實萬・三條實美父子を祭神とする。境内の井戸の水は「染井の水」と呼ばれ、京都三名水の一つとされ、現存するのはここだけみたいです。

 

 

梅林・桃林

 

梅と桃の季節、今日は八分咲き位ですか結構見ごろでしたので写真を撮ってきましたのでご覧ください。

 

 

清水谷家の椋(御所南西側)

 

清水谷家の椋
  この大きなムクの木は、このあたりが清水谷家という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。樹齢は約三百年といわれ苑内でも数少ないムクの大木です。
と記されています。

 

 

蛤御門(烏丸通り)

 

本来の正式名称は「新在家御門(しんざいけごもん)」らしいです。
「禁門の変(蛤御門の変)」 があったのは御存じだと思いますが、弾痕があちらこちらにあります。

 

 

御所はあまりにも広いのひと言、先のほうは遥か彼方に見えてはいますが見てるだけで疲れがジワーと・・・。ちょっと休憩をしながら時計をみるともうお昼だったので腹ごしらえにレッツラGO!とそのまま烏丸通りを北へ・・・。

 

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