尾形光琳

京都

 

堀川通りより寺之内通りを入り東へ進むと、ふと目に入ってきた尾形光琳・尾形家一族 乾山菩提所。 が目に入りました。発見!!

 

尾形光琳(上京区)

 

 

光琳菩提所 興善院旧跡
 尾形(小形)光琳は江戸時代元禄の頃の代表的画家で、京都の呉服商「雁金屋」の生れ、一七一六年(享保元年)六月二日五十九才で寂す、尾形家の菩提寺興善院に葬られた、光琳は嫡子を一七〇八年(宝永五)小西家へ養嗣子にやった為に血脈は小西家へ続き尾形一族より代々の住職を出していた興善院は無住となり、墓のみを残して取払い、本行院の管下に入る、同院一七八八年(天明八)の大火に焼失し、加えて小西家も困窮し一八〇五年(文化二)五月三日光琳の墓石は総墓所へ移された、光琳歿後百年、酒井抱一が光琳の墓石を見出せず、本行院跡に碑を建立す、一八二〇年(文政三)、本行院は泉妙院と合併して興善院跡に再建され本行院跡の碑を泉妙院が管理してきた。
小西家は縁談として尾形家を守り1908年(明治四一)六月、三越呉服本店(現株式会社三越)は小西得太郎と共に施主となり一九四七年(昭和二二)の頃小西家が絶えた後も毎年六月二日光琳忌法要を営んでいる、一九五九年(昭和三四)文化財専門審議会、琳派研究家は総墓所へ移された光琳の墓石を元の所へ戻すことを提案され、一九六二年(昭和三七)正門が妙顕寺に依って南側に移転されたのを機とし埋葬地泉妙院に戻し現在に至る小西家よりの寄贈品、光琳及び一族の作品、文献等を保存し位牌を祀る。
       昭和五十一年六月吉辰
                                            泉妙院 せんみょういん

 

と記されていました。

 

尾形光琳 尾形家一族 乾山

菩提所

弟、陶芸家の尾形乾山

 

 

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